小禄墓(宜野湾市)
「嘉数高台」の北側には、宜野湾市と中城村、西原町をまたぐ琉球大学構内より四・五km続く比屋良川があります。比屋良川は、国道58号線を越えて、浦添市牧港と宜野湾市宇地泊の堺となり西海岸の海へと流れています。 嘉数高台の北側の緑豊かなその川筋の両脇には、十メートル余の断崖がそそり立っていて、多いところで三段も横穴状に掘り込んだ数百年にさかのぼる古い墓群が連なっています。小禄墓は、川べりの急な崖の中腹を掘り込んで、前面を切り石や自然の雑石でふさいだ古い形の墓です。 。墓の大きさは幅八・五メートル、高さ二・四メートル。葬式のときに御矯(肩にかつぐ輿)がそのまま入ると伝えるように、普段の墓口とは別に石積み部分に目地がついていて、幅一・七メートル、高さ二・四メートルの範囲がいつでも取り外せるように工夫されているそう。 墓内にある碑文は現存する沖縄最古の平仮名史料といわれて、尚真(しょうしん)王代(1477~1526年)に、「おろく」というシマを領した身分の高い人の墓と考えられているそう。
小禄墓へは、嘉数高台の北側の住宅街の中の道路に案内板があり、天然酵母パンの宗像堂のあたりから行けたようなのだが、現在はずっと工事中とあり、入れない。 宜野湾市教育委員会の文化課に電話を入れてみると、比屋良川に沿ってつくられた比屋良川公園から入っていけるとのこと、この公園は比屋良川に沿って遊歩道をつくる計画だったのだけど、川沿いは県の管轄ということでまだ川沿いについては工事が進んでいないらしく、公園の途中でフェンスが張られて小禄墓までは行けないようになっている。しかし、管理棟の職員に声をかければ案内してもらえるとのことだったので、声をかけてお願いした。小雨のなか足元が悪い中での案内だったので心苦しかったが、快く引き受けていただいて嬉しかった。 宜野湾市にこんな自然が残っているかと驚くほど、緑豊かですばらしい場所だった。崖の壁はかつての墓穴があちこちに見え、壕のようにも見えるものが多数あった。実際には沖縄では壕として使われ、米軍によって火炎放射器で焼かれ、黒くなった跡が壁のあちらこちらに残っていた。小禄墓の周辺も真っ黒だった。他の史跡を見に行った場合と比較して、これだけ黒く、タールがかかっているような壁は見たことがないので、やはり焼かれたあとなのだろう。 ぜひ、整備して多くの人が安全に、歴史的な史跡と戦争の記録を見ることができるようにしてほしい。
2017年6月16日(金)
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